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あるところに1人の男が居た。
男の人生は、武と共にあった。
今では名前すら正確に遺されていない、古く、カビ臭い武術を男は守り続けていた。
物心付いたときには既にその道にあった。
妻を娶ったのは単なる習慣に過ぎない。武の為に時間を割く自分には、雑事にかまけている暇はなかったから体のいい家政婦くらいにしか思っていなかった。
男には目的があった。ただひたすらに強さを求め、何時果てるとも知らぬ頂を目指した。
妻とは義務感から初夜を過ごした以外に、閨を共にしたことは無かった。
ただひたすらに先人からの遺産を研鑽する事に勤めた。それ以外の全ては雑事だ。そのはずだった。
男も、妻も、いつしか歳をとった。
妻が病にかかった。
ろくに気にもかけなかったその生を、その時ようやく惜しいと思った。
思えば不憫な女だった。ろくにかまいもしない夫を立て、生計をやりくりし、爪に火をともして男を養った。
男は必死に女を看病したが、ろくに武術以外をしなかったために家事も出来ず、仕事に就くこともままならず、やがて女はこの世を去った。
男は泣いた。思えばそれは物心ついて初めて流した涙だったのかもしれない。
「兄貴、手、空いてる?」
冬の気配が一層強まるばかりなある日の午後、いつものように結社備え付けの机に足を投げ出してくつろいでいた一本槍に、不意に入室してきた蒼乃彗が焦りを多分に含んだ声音を吐いた。
「どうした?」
「説明は移動しながらするから、とりあえずバイク出して」
有無を言わせず続けてとある市街地の名前を口にした。少し遠い、けれどもバイクを使えば日付が変わる前に着けない距離でもない場所だ。
バイク通学は禁止されているので、不良たちが良く使う駐輪場へと向かいながらもう一度問う。
「依頼、か?」
「うん」
「戦力はこれだけか?」
「皆何かと手が塞がってるみたいで、捕まったのは兄貴だけなんだ」
舌打ちをした。
最近増えた土蜘蛛の暴走事件での度重なる負傷者、新たに仲間になったクルースニクの受け入れ、衰える気配の無いナイトメアの脅威、さまざまな出来事が重なり今学園は慢性的な人手不足に陥っていた。
一本槍とて、先の依頼をこなし、定められた休養期間が明けたばかりである。
学園近くの駅のコインロッカーからヘルメットを2つ出し、1つを蒼乃彗へ投げた。
「目標は?」
「ゾンビが1、被害者は今ところいないけど……近いうちに1人でるかも」
捕食した人間が無し、ということはそれ程強力な敵でもなかろうが、力を持たない一般人、ノーマルにとっては充分すぎる脅威となる。
「兄貴の準備は?」
「元から今日は訓練に当てようと思ってたんだ。タイマン仕様だから安心しろ」
能力者の装備、スキルは場合によって大きく変化する。
ゴーストタウンと呼ばれる、学園が確保している特殊空間に向かう場合は、弾数重視の持久戦を想定する。逆に依頼に赴く場合は短期決戦型の高威力である反面持久戦に乏しいスタイルを取る事が多い。
お互いの装備、スキル、ポジションなどを話している間にマンションの駐輪場についた。
蒼乃彗のヘルメットがきちんと止められていることを確認すると、バイクのキーを回す。
「しっかり捕まってろよ」
蒼乃彗が自分の腹に手を回したのを確認すると、爆音を轟かせながらバイクを疾駆させた。
目的地は閑静な住宅街の一角にあった。
表札に岳葉とある、どこか寂れた一軒の家。一般人ならば気にも留めないような家だが、ゾンビハンターの能力者である一本槍にはどんな廃墟よりも禍々しい臭いが漂う不気味な物に見えた。
腐った果実のような甘く爛れた臭いが、すでに何処から香ってくるのかもわからぬほど周囲に充満している。
「鼻が曲がりそうだぜ……まちがいねぇ、ここだな」
鼻を擦りながら横を見ると、蒼乃彗が思いつめた厳しい顔をしていた。
「力入りすぎだ。なあに、出来たてのゾンビの1匹や2匹、今の俺たちなら楽勝だ。油断しろとはいわねぇが、無駄に力いれんな」
「別に、そういうわけじゃないんだ。ただ……お婆さんを消滅させたら、お爺さんがどう思うかなって」
今回の目標、敵は1人の老婆だった。
冬の寒さに耐えられずに、風邪をこじらせた彼女は連れ合いの男を残してこの世を去った。
彼女が、リビングデッドとなりこの世に戻ったのは神の奇跡でもなければ、運命の悪戯でもなく、ただただ銀色の雨の呪いに他ならない。
蒼乃彗は、そんな彼女と、連れ合いをおもんばかって心を痛めていた。
「俺らがやらなきゃ、いつか他の奴がやることだ」
乱暴に蒼乃彗の頭を撫でると、一本槍はインターホンを押した。
細々とした作戦を練る時間は無い。連れ合いの成れの果てに生気を吸われている男は、早ければ明日明後日には死ぬ、と予報士は見ていた。
スピードが命。多少手荒な事になろうとも学園の工作班がどうにかする手はずになっていた。
2人でいつでもイグニッション出来るようにしながら家人が出てくるのを待つ。
扉は、出迎えの声も無く静かに開いた。
出てきた老人は眼光が鋭く、鷲鼻で、みごとな白髪を称え、矮躯とはいえその体に張っている気配は一廉の武人を思わせた。
「こんばんは。夜分遅くすいません。僕たちは」
「お前たちが、お迎えか」
「え?」
老人の鋭い抜き手を、反射に近い動きで蒼乃彗が避けた。かすった頬が裂けて血が溢れる。
まさか問答無用で襲ってくるとは思いもしなかった。
「なっ!? てめぇ」
蒼乃彗の脇を潜り抜けた老人が、一瞬の内に肉薄してきた。
特に老人が早いわけではないのに、目で追うことが出来ない。
水のように捕らえどころの無い、相棒である朔月を相手にしたときのような感覚が一本槍を襲った。
――誰が、死にかけの爺だって?
相変わらず当てにならない予報士への罵声を吐きながら、一本槍は宙を舞った。
上下の感覚が消失した中で、真に警戒すべきは連れ合いの方だったのだと、自分の失態を恥じた。直後、硬いアスファルトに叩きつけられて、一本槍は意識を手放した。
どれほど意識を失っていたのか。
茫洋とした感覚の中で、蒼乃彗としわがれた男の声が木霊していた。
「そんな事、誰も望んでない!」
「私が、望んでいるんだよ」
激昂した蒼乃彗の声とは対照的に男の声は何処までも静謐で、しかし折れることの無い意思を感じさせる頑なさがあった。
「私は駄目な夫だった。それがどういうわけか償う機会を得た。現状を満足こそすれ、今更命を惜しいとは思わない」
「償って欲しいなんて、あの人は願って無い!」
「ああ、これは私の自己満足だよ。最後まで私はそういう風にしか在れないようだ」
「わからずや!」
「理解してほしいとは言わんよ。ただ、出来るなら、私が逝った後あれを見送ってやってほしい」
沈黙が降りる。
見えてもいないのに、蒼乃彗の無念そうな顔が容易に想像できた。
彼はあまりに優しすぎた。一本槍よりも能力者としては強くとも、こういう時に非情になれな温かさが少なからず存在していた。
「ツレもそろそろ起きる頃だ。連絡はさせるように言っておく。それまで、そっとしておいてくれ」
させるように、とは自分が死んだ後と言うことだろうか。
自分が死ぬことを受け入れている男の静かな覚悟が、今は居ない相棒を連想させた。
襖を開ける開け閉めする音の後に、誰かが近づいて来る気配がした。
「兄貴、大丈夫? 起きれる?」
「なんとか、な。それよりどうなった?」
飲みすぎた後のように混濁した視界で、どうにか起き上がる。
ふらつく一本槍の体を支えながら、蒼乃彗は静かに首を振った。
「お爺さんは、死ぬ気だよ」
会話から推測した内容が間違っていないことに、一本槍は暗澹たる気持ちでため息をついた。
「途中から聞いちゃいたが、またどうして」
「お爺さんは、お婆さんを死なせてしまった事を後悔してるんだ」
「てことは、婆さんが化け物になってるっていうのを」
「うん。人じゃなくなってるって、なんとなくわかったらしいよ」
ため息をもう一つ吐く。
能力に目覚めていなくても、稀にゴーストの存在を素直に受け入れる者が居た。大概は常識と非常識の境目が曖昧である素直な若い世代に多いのだが、老人はそれとは違った別の何か、勘働きとでもいおうか、それが一般人よりも鋭いらしかった。
まったく面倒な事になった。いっそ男を無力化してから目標に向かうか、と物騒なことを考えた。
「止めといたほうがいいよ」
見透かしたように蒼乃彗が止めた。
「お爺さん、相当の使い手だよ。少なくとも僕がイグニッションして殺す気でやらないと勝てないくらい」
「どんだけ化け物だよ」
「ずっと武術だけをやってきたんだって。だから、お婆さんを顧みてやれなかったって後悔してるんだ」
「だから婆の餌になって償おうってか? 阿呆か」
「うん。僕もそう思うよ。でも、止められないんだ」
彼らの悲劇が自分一人のせいだとでも思っているのか、蒼乃彗は肩を落とした。
「気にすんな。ノーマルが死んじまったら上がうるせぇだろうが、まぁ個人意思の尊重ってやつだ。俺らにゃあ関係ねぇよ」
わざわざ一般人の蔑称であるノーマルという単語を強調して吐き捨てると、引っ張るようにして蒼乃彗を連れて家を出た。
――とりあえず、近くにヤサを確保しないとな。
駅の方向に行けば24時間営業の漫画喫茶なりカプセルホテルなりあるだろう。あたりをつけて歩き出した。
駅前のビジネスホテルに当座の拠点を置くと、翌日から岳葉家に居座ることにした。
「放っておけ、と言ったはずだぞ」
1日とあけずに訪れた事に呆れたのか、ジンベエ姿の男が渋面を作って出迎えた。
「餓鬼の使いじゃねぇんだ。ほっとけって言われてはいそうですか、とはいかねぇんだよ」
「どうしてもというなら、今度は手足の1本ではすまさんが?」
昨日ろくな抵抗も出来ずに投げ飛ばされたことをいっているのだろう。一般人などに虚仮にされたのが腹立たしくて顔の筋肉がひきつれた。
「はやんなよ。別に今すぐテメェのかみさん殺そうってんじゃねぇ。俺らだって無駄な苦労はしたくねぇんだ。バラすなら邪魔なテメェがくたばってからゆっくりやるさ」
「兄貴」
蒼乃彗に諌めるように袖を引かれ、老人と睨みあっていた視線を外した。
「お爺さん、無理は承知でお願いします。僕らにも事情があって……もちろん、お婆さんに手はだしません。ただ、万が一の為に出来るだけここに居たいんです。ご迷惑はおかけしません」
「……入れ」
渋々といった風情で通されたのは、中心に炬燵のある狭い和室だった。炬燵の他には壁掛け時計があるだけの、実に簡素な居間だ。
「茶は出さんぞ」
「おかまいなく」
これ以上老人と会話をしても話がこじれるだけだと見切りをつけて、彼との会話は蒼乃彗に任せることにした。かといって、蒼乃彗自体それほど社交的な人間でもない。
秒針の進む音だけが部屋を満たした。
別段、老人と友好的になろうなどと考えて来たわけでもない。老婆が暴走して、連れ合い以外の一般人に手を出さないように監視するのが目的だ。このまま老人が死ぬまで沈黙が続いてもいい。一般人と話す事など元から有りはしないのだ。
「あの」
重い空気に耐えかねたのか、蒼乃彗が口を開いた。
「お爺さんは、死にたいんですか?」
「唐突だな」
本当に唐突だ。彼ら夫妻の話は、昨日の会話でもう納得したものだと一本槍でさえ思っていたのだ。
「このままお婆さんの世話をし続ければ確実に死にます。お爺さんにもそれはわかっているはずです」
「昨日も言ったが、私はそれで満足している」
「お婆さんが、望まなくてもですか」
「そうだ。私はあれを生かす。そこにあれの意思は関係ない」
「それって、今までと何も変わらないんじゃないですか? あなたが償いたいと思っている過去と」
口調が徐々に詰問めいてきた。蒼乃彗の瞳は少しの偽りも逃さないとばかりに鋭く、老人を睨みつけている
「そうして、私にまたあれの居ない生活を続けろというのか? お前たちの目的とは、望まぬ者を強制的に生かすことなのか?」
「そうじゃない! でも、自分の為に誰かの想いを無視するような生き方は間違ってるって言ってるんだ!」
蒼乃彗が激昂して、卓を両手で叩いた。力の加減も無く叩いたのだろう。かなり大きな音が居間に響き、壁掛け時計が少しずれた。
老人は、憤る少年を微塵も揺るがぬ瞳で見つめている。
「人はどうやっても自分本位にしか生きられんよ。誰かの為などと言うのは、奇麗事でしか無い」
勝負あった。いや、元から勝負になどなっていないのだ。
暖簾に腕押し、覚悟を決めた人間に第三者が何か出来ることなどありはしないのだ。
「人の為と書いて偽りと読むってな」
「兄貴! いったいどっちの味方なのさ!」
「別に俺は婆さえ始末できればそれでいい。お前みたいにこいつを生かそうとも思わないし、ましてや先のねぇ爺婆の気持ちに整理をつけようなんざおもっちゃ いねぇ。世の中ってのはな、空。誰も彼もがハッピーエンド、って具合にはならねぇように出来てるんだ。椅子取りゲームと同じだ。早いものが、押しの強いヤ ツが勝つ。負けたやつはただのノロマなんだよ」
それきりまた沈黙が続いた。
蒼乃彗は先の言葉に納得したわけではないだろうが、言い返すことも出来ないといった感じだ。彼自身、そんな甘い言葉が通ると信じられるほど優しい世界で生きてきたわけではないはずだ。
「どうしても、駄目ですか」
「駄目だ」
懇願に似た言葉は、少しも相手に通じることなく弾き飛ばされた。
蒼乃彗は唇を噛むと俯いてしまった。
結局、それからはどちらも口を開くことなく無機質な秒針の針だけを耳で追って過ごした。
「あの人が、逝きました」
目標から直接連絡があったのは、初めての邂逅から4日目の事だった。
6畳間の床の上で、安らかとも言える顔で老人が息絶えていた。まるで午睡のような穏やかさで、老女の膝の上で死んでいる彼は、確かに満足していたのだと感じた。
女はどうだったのだろう。老女の顔を見やった一本槍は息を呑んだ。
老婆は、悲哀が、絶望が、哀愁が、未練が、ごちゃ混ぜになった暗い表情で涙を流していた。
「馬鹿な人」
一梳きごと呪うように、男の豊かな白髪を撫ぜていた。
「私は、あのまま死んでしまって満足だったのに。本当、貴方は身勝手です」
鬼女、子を殺された女は鬼になると言うが、彼女は一体何モノか。
飲まれかけた気を奮い立たせるように、イグニッションと同時に得物を構えた。
1歩、間合いを詰めようとしたところで蒼乃彗が前に進み出た。
「兄貴、僕に……やらせてくれないかな」
「いいのか?」
「うん。覚悟、してきたことだから」
小振りのナイフを構え、蒼乃彗が間合いをつめた。
「ごめんなんて、言わないよ」
少年の刃は、優しかった。
すべらかに走った銀線は、女にろくな抵抗すらさせる暇も無く深々と胸に突き刺さり、女の偽りの生を断ち切った。
男に折り重なるようにして倒れこむ女を、潤んだ瞳で蒼乃彗は見つめていた。
夫妻の家から充分離れると、工作班の手による事後処理が行われた。
轟々と燃え上がる家が、遠く離れた2人の目にもはっきりと映った。
家族も親戚付き合いも無い老夫妻の死は、ガス漏れによる火災として新聞の隅に1日乗るくらいで、すぐに忘れ去られるだろう。
「兄貴」
「うん?」
「僕たちのした事って間違ってたのかな? 少なくとも、最初の日に無理にでもお婆さんを……殺していれば、こんなことにならなかったんじゃないかな」
答えることが出来なかった。
たら、れば、仮定はいくらでも出来ただろうが、それでもそれは所詮もしもの話だ。その先の未来は神ならぬ自分たちには推し量ることが出来ない。
もしもの話、本当に彼女を初日に殺そうとしたらあの男は全力で抵抗しただろう。彼に致命傷を負わせないで老婆へ到達できたかもわからないし、よしんば無事 に殺せたとしてもその後男が自殺したかもしれないのだ。老婆の為に文字通り身を切って世話をしていた男を思うと、むしろそうなっていた可能性のほうが大き いのではないか。
「いつも、僕たちは遅いよね。誰かが苦しんで、悲しんで、それの後始末さえまともに出来ないんだ」
泣いてはいない、けれども抑えきれない感情が震える言葉となって表れていた。
「笑ってたぜ」
「え?」
「お前はすぐに出てったから知らねぇだろうが、俺は少しの間残って処理の連中に引継ぎしてたんだ。でな、婆さんと爺さんを移動させた時にな、見たんだよ。婆さん笑ってたんだ。なんで笑ってたか俺にはわかんねぇけどよ」
嘘をついた。
涙を流さずに泣いているような弟分があまりに放っておけなくて、口から出任せの言葉を紡ぐ。
蒼乃彗は答えなかった。
嘘を見破ったのか、それとも奇麗事を受け入れて折り合いをつけたのか、無言で空に舞う火の粉を見つめている。オレンジ色が映り込んだ少年の瞳からは、何も掴めなかった。
今では名前すら正確に遺されていない、古く、カビ臭い武術を男は守り続けていた。
物心付いたときには既にその道にあった。
妻を娶ったのは単なる習慣に過ぎない。武の為に時間を割く自分には、雑事にかまけている暇はなかったから体のいい家政婦くらいにしか思っていなかった。
男には目的があった。ただひたすらに強さを求め、何時果てるとも知らぬ頂を目指した。
妻とは義務感から初夜を過ごした以外に、閨を共にしたことは無かった。
ただひたすらに先人からの遺産を研鑽する事に勤めた。それ以外の全ては雑事だ。そのはずだった。
男も、妻も、いつしか歳をとった。
妻が病にかかった。
ろくに気にもかけなかったその生を、その時ようやく惜しいと思った。
思えば不憫な女だった。ろくにかまいもしない夫を立て、生計をやりくりし、爪に火をともして男を養った。
男は必死に女を看病したが、ろくに武術以外をしなかったために家事も出来ず、仕事に就くこともままならず、やがて女はこの世を去った。
男は泣いた。思えばそれは物心ついて初めて流した涙だったのかもしれない。
「兄貴、手、空いてる?」
冬の気配が一層強まるばかりなある日の午後、いつものように結社備え付けの机に足を投げ出してくつろいでいた一本槍に、不意に入室してきた蒼乃彗が焦りを多分に含んだ声音を吐いた。
「どうした?」
「説明は移動しながらするから、とりあえずバイク出して」
有無を言わせず続けてとある市街地の名前を口にした。少し遠い、けれどもバイクを使えば日付が変わる前に着けない距離でもない場所だ。
バイク通学は禁止されているので、不良たちが良く使う駐輪場へと向かいながらもう一度問う。
「依頼、か?」
「うん」
「戦力はこれだけか?」
「皆何かと手が塞がってるみたいで、捕まったのは兄貴だけなんだ」
舌打ちをした。
最近増えた土蜘蛛の暴走事件での度重なる負傷者、新たに仲間になったクルースニクの受け入れ、衰える気配の無いナイトメアの脅威、さまざまな出来事が重なり今学園は慢性的な人手不足に陥っていた。
一本槍とて、先の依頼をこなし、定められた休養期間が明けたばかりである。
学園近くの駅のコインロッカーからヘルメットを2つ出し、1つを蒼乃彗へ投げた。
「目標は?」
「ゾンビが1、被害者は今ところいないけど……近いうちに1人でるかも」
捕食した人間が無し、ということはそれ程強力な敵でもなかろうが、力を持たない一般人、ノーマルにとっては充分すぎる脅威となる。
「兄貴の準備は?」
「元から今日は訓練に当てようと思ってたんだ。タイマン仕様だから安心しろ」
能力者の装備、スキルは場合によって大きく変化する。
ゴーストタウンと呼ばれる、学園が確保している特殊空間に向かう場合は、弾数重視の持久戦を想定する。逆に依頼に赴く場合は短期決戦型の高威力である反面持久戦に乏しいスタイルを取る事が多い。
お互いの装備、スキル、ポジションなどを話している間にマンションの駐輪場についた。
蒼乃彗のヘルメットがきちんと止められていることを確認すると、バイクのキーを回す。
「しっかり捕まってろよ」
蒼乃彗が自分の腹に手を回したのを確認すると、爆音を轟かせながらバイクを疾駆させた。
目的地は閑静な住宅街の一角にあった。
表札に岳葉とある、どこか寂れた一軒の家。一般人ならば気にも留めないような家だが、ゾンビハンターの能力者である一本槍にはどんな廃墟よりも禍々しい臭いが漂う不気味な物に見えた。
腐った果実のような甘く爛れた臭いが、すでに何処から香ってくるのかもわからぬほど周囲に充満している。
「鼻が曲がりそうだぜ……まちがいねぇ、ここだな」
鼻を擦りながら横を見ると、蒼乃彗が思いつめた厳しい顔をしていた。
「力入りすぎだ。なあに、出来たてのゾンビの1匹や2匹、今の俺たちなら楽勝だ。油断しろとはいわねぇが、無駄に力いれんな」
「別に、そういうわけじゃないんだ。ただ……お婆さんを消滅させたら、お爺さんがどう思うかなって」
今回の目標、敵は1人の老婆だった。
冬の寒さに耐えられずに、風邪をこじらせた彼女は連れ合いの男を残してこの世を去った。
彼女が、リビングデッドとなりこの世に戻ったのは神の奇跡でもなければ、運命の悪戯でもなく、ただただ銀色の雨の呪いに他ならない。
蒼乃彗は、そんな彼女と、連れ合いをおもんばかって心を痛めていた。
「俺らがやらなきゃ、いつか他の奴がやることだ」
乱暴に蒼乃彗の頭を撫でると、一本槍はインターホンを押した。
細々とした作戦を練る時間は無い。連れ合いの成れの果てに生気を吸われている男は、早ければ明日明後日には死ぬ、と予報士は見ていた。
スピードが命。多少手荒な事になろうとも学園の工作班がどうにかする手はずになっていた。
2人でいつでもイグニッション出来るようにしながら家人が出てくるのを待つ。
扉は、出迎えの声も無く静かに開いた。
出てきた老人は眼光が鋭く、鷲鼻で、みごとな白髪を称え、矮躯とはいえその体に張っている気配は一廉の武人を思わせた。
「こんばんは。夜分遅くすいません。僕たちは」
「お前たちが、お迎えか」
「え?」
老人の鋭い抜き手を、反射に近い動きで蒼乃彗が避けた。かすった頬が裂けて血が溢れる。
まさか問答無用で襲ってくるとは思いもしなかった。
「なっ!? てめぇ」
蒼乃彗の脇を潜り抜けた老人が、一瞬の内に肉薄してきた。
特に老人が早いわけではないのに、目で追うことが出来ない。
水のように捕らえどころの無い、相棒である朔月を相手にしたときのような感覚が一本槍を襲った。
――誰が、死にかけの爺だって?
相変わらず当てにならない予報士への罵声を吐きながら、一本槍は宙を舞った。
上下の感覚が消失した中で、真に警戒すべきは連れ合いの方だったのだと、自分の失態を恥じた。直後、硬いアスファルトに叩きつけられて、一本槍は意識を手放した。
どれほど意識を失っていたのか。
茫洋とした感覚の中で、蒼乃彗としわがれた男の声が木霊していた。
「そんな事、誰も望んでない!」
「私が、望んでいるんだよ」
激昂した蒼乃彗の声とは対照的に男の声は何処までも静謐で、しかし折れることの無い意思を感じさせる頑なさがあった。
「私は駄目な夫だった。それがどういうわけか償う機会を得た。現状を満足こそすれ、今更命を惜しいとは思わない」
「償って欲しいなんて、あの人は願って無い!」
「ああ、これは私の自己満足だよ。最後まで私はそういう風にしか在れないようだ」
「わからずや!」
「理解してほしいとは言わんよ。ただ、出来るなら、私が逝った後あれを見送ってやってほしい」
沈黙が降りる。
見えてもいないのに、蒼乃彗の無念そうな顔が容易に想像できた。
彼はあまりに優しすぎた。一本槍よりも能力者としては強くとも、こういう時に非情になれな温かさが少なからず存在していた。
「ツレもそろそろ起きる頃だ。連絡はさせるように言っておく。それまで、そっとしておいてくれ」
させるように、とは自分が死んだ後と言うことだろうか。
自分が死ぬことを受け入れている男の静かな覚悟が、今は居ない相棒を連想させた。
襖を開ける開け閉めする音の後に、誰かが近づいて来る気配がした。
「兄貴、大丈夫? 起きれる?」
「なんとか、な。それよりどうなった?」
飲みすぎた後のように混濁した視界で、どうにか起き上がる。
ふらつく一本槍の体を支えながら、蒼乃彗は静かに首を振った。
「お爺さんは、死ぬ気だよ」
会話から推測した内容が間違っていないことに、一本槍は暗澹たる気持ちでため息をついた。
「途中から聞いちゃいたが、またどうして」
「お爺さんは、お婆さんを死なせてしまった事を後悔してるんだ」
「てことは、婆さんが化け物になってるっていうのを」
「うん。人じゃなくなってるって、なんとなくわかったらしいよ」
ため息をもう一つ吐く。
能力に目覚めていなくても、稀にゴーストの存在を素直に受け入れる者が居た。大概は常識と非常識の境目が曖昧である素直な若い世代に多いのだが、老人はそれとは違った別の何か、勘働きとでもいおうか、それが一般人よりも鋭いらしかった。
まったく面倒な事になった。いっそ男を無力化してから目標に向かうか、と物騒なことを考えた。
「止めといたほうがいいよ」
見透かしたように蒼乃彗が止めた。
「お爺さん、相当の使い手だよ。少なくとも僕がイグニッションして殺す気でやらないと勝てないくらい」
「どんだけ化け物だよ」
「ずっと武術だけをやってきたんだって。だから、お婆さんを顧みてやれなかったって後悔してるんだ」
「だから婆の餌になって償おうってか? 阿呆か」
「うん。僕もそう思うよ。でも、止められないんだ」
彼らの悲劇が自分一人のせいだとでも思っているのか、蒼乃彗は肩を落とした。
「気にすんな。ノーマルが死んじまったら上がうるせぇだろうが、まぁ個人意思の尊重ってやつだ。俺らにゃあ関係ねぇよ」
わざわざ一般人の蔑称であるノーマルという単語を強調して吐き捨てると、引っ張るようにして蒼乃彗を連れて家を出た。
――とりあえず、近くにヤサを確保しないとな。
駅の方向に行けば24時間営業の漫画喫茶なりカプセルホテルなりあるだろう。あたりをつけて歩き出した。
駅前のビジネスホテルに当座の拠点を置くと、翌日から岳葉家に居座ることにした。
「放っておけ、と言ったはずだぞ」
1日とあけずに訪れた事に呆れたのか、ジンベエ姿の男が渋面を作って出迎えた。
「餓鬼の使いじゃねぇんだ。ほっとけって言われてはいそうですか、とはいかねぇんだよ」
「どうしてもというなら、今度は手足の1本ではすまさんが?」
昨日ろくな抵抗も出来ずに投げ飛ばされたことをいっているのだろう。一般人などに虚仮にされたのが腹立たしくて顔の筋肉がひきつれた。
「はやんなよ。別に今すぐテメェのかみさん殺そうってんじゃねぇ。俺らだって無駄な苦労はしたくねぇんだ。バラすなら邪魔なテメェがくたばってからゆっくりやるさ」
「兄貴」
蒼乃彗に諌めるように袖を引かれ、老人と睨みあっていた視線を外した。
「お爺さん、無理は承知でお願いします。僕らにも事情があって……もちろん、お婆さんに手はだしません。ただ、万が一の為に出来るだけここに居たいんです。ご迷惑はおかけしません」
「……入れ」
渋々といった風情で通されたのは、中心に炬燵のある狭い和室だった。炬燵の他には壁掛け時計があるだけの、実に簡素な居間だ。
「茶は出さんぞ」
「おかまいなく」
これ以上老人と会話をしても話がこじれるだけだと見切りをつけて、彼との会話は蒼乃彗に任せることにした。かといって、蒼乃彗自体それほど社交的な人間でもない。
秒針の進む音だけが部屋を満たした。
別段、老人と友好的になろうなどと考えて来たわけでもない。老婆が暴走して、連れ合い以外の一般人に手を出さないように監視するのが目的だ。このまま老人が死ぬまで沈黙が続いてもいい。一般人と話す事など元から有りはしないのだ。
「あの」
重い空気に耐えかねたのか、蒼乃彗が口を開いた。
「お爺さんは、死にたいんですか?」
「唐突だな」
本当に唐突だ。彼ら夫妻の話は、昨日の会話でもう納得したものだと一本槍でさえ思っていたのだ。
「このままお婆さんの世話をし続ければ確実に死にます。お爺さんにもそれはわかっているはずです」
「昨日も言ったが、私はそれで満足している」
「お婆さんが、望まなくてもですか」
「そうだ。私はあれを生かす。そこにあれの意思は関係ない」
「それって、今までと何も変わらないんじゃないですか? あなたが償いたいと思っている過去と」
口調が徐々に詰問めいてきた。蒼乃彗の瞳は少しの偽りも逃さないとばかりに鋭く、老人を睨みつけている
「そうして、私にまたあれの居ない生活を続けろというのか? お前たちの目的とは、望まぬ者を強制的に生かすことなのか?」
「そうじゃない! でも、自分の為に誰かの想いを無視するような生き方は間違ってるって言ってるんだ!」
蒼乃彗が激昂して、卓を両手で叩いた。力の加減も無く叩いたのだろう。かなり大きな音が居間に響き、壁掛け時計が少しずれた。
老人は、憤る少年を微塵も揺るがぬ瞳で見つめている。
「人はどうやっても自分本位にしか生きられんよ。誰かの為などと言うのは、奇麗事でしか無い」
勝負あった。いや、元から勝負になどなっていないのだ。
暖簾に腕押し、覚悟を決めた人間に第三者が何か出来ることなどありはしないのだ。
「人の為と書いて偽りと読むってな」
「兄貴! いったいどっちの味方なのさ!」
「別に俺は婆さえ始末できればそれでいい。お前みたいにこいつを生かそうとも思わないし、ましてや先のねぇ爺婆の気持ちに整理をつけようなんざおもっちゃ いねぇ。世の中ってのはな、空。誰も彼もがハッピーエンド、って具合にはならねぇように出来てるんだ。椅子取りゲームと同じだ。早いものが、押しの強いヤ ツが勝つ。負けたやつはただのノロマなんだよ」
それきりまた沈黙が続いた。
蒼乃彗は先の言葉に納得したわけではないだろうが、言い返すことも出来ないといった感じだ。彼自身、そんな甘い言葉が通ると信じられるほど優しい世界で生きてきたわけではないはずだ。
「どうしても、駄目ですか」
「駄目だ」
懇願に似た言葉は、少しも相手に通じることなく弾き飛ばされた。
蒼乃彗は唇を噛むと俯いてしまった。
結局、それからはどちらも口を開くことなく無機質な秒針の針だけを耳で追って過ごした。
「あの人が、逝きました」
目標から直接連絡があったのは、初めての邂逅から4日目の事だった。
6畳間の床の上で、安らかとも言える顔で老人が息絶えていた。まるで午睡のような穏やかさで、老女の膝の上で死んでいる彼は、確かに満足していたのだと感じた。
女はどうだったのだろう。老女の顔を見やった一本槍は息を呑んだ。
老婆は、悲哀が、絶望が、哀愁が、未練が、ごちゃ混ぜになった暗い表情で涙を流していた。
「馬鹿な人」
一梳きごと呪うように、男の豊かな白髪を撫ぜていた。
「私は、あのまま死んでしまって満足だったのに。本当、貴方は身勝手です」
鬼女、子を殺された女は鬼になると言うが、彼女は一体何モノか。
飲まれかけた気を奮い立たせるように、イグニッションと同時に得物を構えた。
1歩、間合いを詰めようとしたところで蒼乃彗が前に進み出た。
「兄貴、僕に……やらせてくれないかな」
「いいのか?」
「うん。覚悟、してきたことだから」
小振りのナイフを構え、蒼乃彗が間合いをつめた。
「ごめんなんて、言わないよ」
少年の刃は、優しかった。
すべらかに走った銀線は、女にろくな抵抗すらさせる暇も無く深々と胸に突き刺さり、女の偽りの生を断ち切った。
男に折り重なるようにして倒れこむ女を、潤んだ瞳で蒼乃彗は見つめていた。
夫妻の家から充分離れると、工作班の手による事後処理が行われた。
轟々と燃え上がる家が、遠く離れた2人の目にもはっきりと映った。
家族も親戚付き合いも無い老夫妻の死は、ガス漏れによる火災として新聞の隅に1日乗るくらいで、すぐに忘れ去られるだろう。
「兄貴」
「うん?」
「僕たちのした事って間違ってたのかな? 少なくとも、最初の日に無理にでもお婆さんを……殺していれば、こんなことにならなかったんじゃないかな」
答えることが出来なかった。
たら、れば、仮定はいくらでも出来ただろうが、それでもそれは所詮もしもの話だ。その先の未来は神ならぬ自分たちには推し量ることが出来ない。
もしもの話、本当に彼女を初日に殺そうとしたらあの男は全力で抵抗しただろう。彼に致命傷を負わせないで老婆へ到達できたかもわからないし、よしんば無事 に殺せたとしてもその後男が自殺したかもしれないのだ。老婆の為に文字通り身を切って世話をしていた男を思うと、むしろそうなっていた可能性のほうが大き いのではないか。
「いつも、僕たちは遅いよね。誰かが苦しんで、悲しんで、それの後始末さえまともに出来ないんだ」
泣いてはいない、けれども抑えきれない感情が震える言葉となって表れていた。
「笑ってたぜ」
「え?」
「お前はすぐに出てったから知らねぇだろうが、俺は少しの間残って処理の連中に引継ぎしてたんだ。でな、婆さんと爺さんを移動させた時にな、見たんだよ。婆さん笑ってたんだ。なんで笑ってたか俺にはわかんねぇけどよ」
嘘をついた。
涙を流さずに泣いているような弟分があまりに放っておけなくて、口から出任せの言葉を紡ぐ。
蒼乃彗は答えなかった。
嘘を見破ったのか、それとも奇麗事を受け入れて折り合いをつけたのか、無言で空に舞う火の粉を見つめている。オレンジ色が映り込んだ少年の瞳からは、何も掴めなかった。
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